2012年7月20日金曜日

茜ちゃんの「白洲正子著作集・読書日記」-019



            
                「十一面観音巡礼こもりく泊瀬

長谷寺-006

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                  写真の薔薇・樹木花等は<花咲きかおまさ>さんの著作権が付いております。

 南方海域に熱帯低気圧が発生したと思ったら、もう午前中から奄美諸島は台風の直撃を受けるはめになったしまいました。 50~80mm/hの予想。実際はどうなるでしょうか。
昨日、谷川の堤防の護岸の根元に石を集めて積み重ね、底を抉られない様にと応急処置をしたばかり。 せっかちな台風です。 今年は台風の襲来が多いですね。皆さんも九州の様な大水害に遭わないように充分ご注意ください。 自然は何時も生き物に対して過酷ですね。
 


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 先回は 「渡来人の足跡」・天日槍新羅都怒我阿羅斯等(加羅)ということで、朝鮮半島の各時代の民族が戦争やその他の理由で、当時は発展途上国であった倭国(日本)に様々なルートで渡来し、山陰・山陽・若狭・近江一帯に住み着いていった事を書いた。
 
各地に数多くの渡来人と思しき墳墓、住居跡、構築物、神社・仏閣・地名etcなどが残っている。科学的な判断からみて、否定はどうしても出来ないのである。また、歴史上著名な人物の中にはそのルーツが日本を離れて、朝鮮半島、中国、そのまた以西にある方々も多く居るようである。

 諸説の中には<聖徳太子の母親はペルシャ人であった>と書いている人も有るくらい。しかし、無闇に頭ごなしに否定も出来ないところが、古代史の不思議なところ。  最近まで・・・聖徳太子は実在しなかった・・・・などという説が有力であった。そうであるならばあながち母親のペルシャ人説も無下には否定もできない・・・・・・。
 
そのような訳で、今後古代史の歴史学としての記述が大幅に変わる可能性は大きいと言わざるを得ない。物理学の世界のビックバン理論が真実であると確定したわけでもなく、学者の間には有力な反対論者もある位である。今後どのようにヒックリ返るか分らないのと同じようなものである。 
 
Wiki 資料では  応神天皇 ー 稚野毛二派皇子 ーー 意富富杼王息長氏〕ー
                                |
                                 ー 隼総別皇子  

                   ー  乎非王 - 彦主人王 - 継体天皇                                                

この点を・・・倭彦王擁立は「書記」編者が、継体による皇統簒奪を隠蔽しようとした作為的な曲筆でないか・・・・と史家に疑われているようである。 また、武烈天皇に嫡子がなく、非道な行いが多く問題のあった天皇とされている。これが果たして史実通りなのかと言うことである。
 
* 
日本書紀 巻第十六 には<武烈天皇の暴虐>の項は存在する。
何かしら近似した事実がこの天皇にあったかもしれないが、当時の豪族と天皇系との力関係によってわざと強調され、この王統継続の断絶の必要性を強く示唆するが為の作為に似たものであるとする説も有る。

つまり、継体天皇より始まる王朝が三輪王朝河内王朝に継ぐ新王朝である事を言外に仄めかしているのかもしれない。継体の「」、「」は<新しく新王朝を継ぐ>の意味に取っても違和感はないし、その意思を素直に感じる。 
               
CoffeeOvation CoffeeOvation.jpg 


前口上が長くなったが、本日からは「継体天皇の出自」を考えてみたい。


 白洲正子(敬称略)が「十一面観音巡礼」のなかで、近江の山中から流れ出た樟の巨木が、百年前後の時間と紆余曲折を経て、大和国の三輪山の麓の長谷寺に辿り着き、十一面観音となった伝承を書いたが、著作の文章の中に、その間の経緯を詳細に書けなかった事情は、継体天皇とその一族の出自にあることは間違いない。 書きたくてもご自分の置かれた立場では無理と言うものであることは、先般来書いて来た通りである。

重複するようであるが纏めてみると、継体天皇の出自については4種類有る。

- 近江の高島郡(現在の滋賀県高島市)の辺りで出生された。
- 越の三国(現在の福井県坂井郡三国町)の辺りで出生された。
-A・ 朝鮮半島からの渡来人である母・振媛と倭国の豪族との間に生まれた。
      B・   母・振媛の連れ子である。
   
「3」に至っては、人によっては激怒するかもしれないが、それは東洋人の感覚であって、西ヨーロッパなどでは特にどうと言うことでもない。 ごく普通にあった歴史的事実である。 先ずは順番に冷静に考えてみようと思う。
Angela Angela2.jpg

 
A     近江の高島郡(現在の滋賀県高島市)の辺りで出生された

 継体天皇は即位前までは近江の高島郡一帯を治めていた豪族の長・・・・日本書紀では男大迹王(おおどのおおきみ)、古事記では袁本杼命(おおどのみこと)・・・・であった。
日本書記では応神天皇の五世孫と記している。武烈天皇とは十親等も離れている。

しかし、此処までに来るに奇妙な事実があった。先代の天皇即位者・武烈天皇崩御後、最初に候補に挙がったのは仲哀天皇(応神天皇の父)の五世孫・倭彦王(やまとひこおう)であったが、擁立に失敗し、男大迹王に白羽の矢が立ったのである。しかしながら不思議な事に継体の父・彦王人王(ひこうしおう)と応神天皇の間の三代の実名が「書記」には記載がないのである。                              
 
* 
 Tradescant   Tradescant.jpg


 
 継体天皇は「記紀」以前では垂仁天皇(三輪大王家)の末裔と称し、「記紀」の編纂段階で応神天皇五世孫と称している。実に奇々怪々なことでもある。乱暴に言うと相当フィクションが混入していると考えねばならない。

継体天皇その人である男大迹王(おおどのおおきみ)が近江で出生されたにしろ、越前国三国で出生されたにしろ、父・彦王人王(ひこうしおう)は近江高島辺りである事は、傍証からほぼ間違いないようである。WIKIの資料を上に揚げたが、その中に意富富杼王息長氏〕がが見える。結論からいうと、継体天皇は息長氏一族の出であろうという事になる。

近江の有力豪族で皇統系図に頻繁に現れるのがこの息長氏である。天皇家の系譜中に頻繁に現れる息長を冠した名前が頻繁に現れるのは、「息長氏による「系譜の嵩上げ」が有ったと推測する学者が複数いる。息長氏は6~7世紀頃皇親としての立場を利用して、天皇家と有力氏族らの系図類の嵩上げを意図的に、政策的に行ったとしている。

さらに・・・「記紀」の編纂の少し前の天武・持統天皇のころ、宮廷伝承に息長氏は自家の系譜を持ち込みはめ込んでいる・・・としている。また・・・以上のようなだいそれた事が可能だったのは、息長氏が継体天皇の出身氏族だったからに他ならない・・・・としている。至極常識的な推論であろうと筆者も考える。 
 
Eglantyne Eglantyne.jpg 


 息長氏の地盤であったと推測される場所は、近江国坂田郡近江町(現・米原)である。息長荘、息長村、米原市立息長小学校などという名称も見られる。ここから琵琶湖を隔てた対岸には近江高島・三尾の里である。 継体の父・彦王人王の別業(別荘)があった。

継体天皇のお妃も9人ほど存在していたらしいが、越国出身者は居ないとのこと。近江、尾張などの地域である。そのようなことから、継体天皇の出生地は近江というのが有力なところであろう。特筆すべきは尾張の豪族と密接な関係が保たれ、厳然たる力を発揮する石杖になっていたのが興味を引く。


織田信長の一族の古巣は越前国織田荘である。当然のことながら朝鮮半島と密接な関係に有った事は間違いのないことであろう。男大迹王の時代に近江、尾張、越前は大きな一つの勢力圏にあったことは充分想像できる事である。

Mary_Rose Mary_Rose.jpg



 一般の書物には「古事記」、「日本書紀」以前には史実資料がないと、いとも簡単に切り捨てているが、実は記紀編纂の段階で、多数存在した「風土記」の類が廃棄された事実が有る様である。古代中国にも正史は存在するが、編纂後は参考資料は廃棄するのが建前のようであった。仮に記紀の編纂の段階でこれが行われたら、真実は永遠に闇のかなたに消えていってしまう。編者や時の実力者に具合の悪い史実は、先ずその憂き目に遭うであろう。 

仮にの話だが・・・・・<天皇家は万世一系>に拘らないという考えが、日本人全体の共通の通念になったならば、全国の神社・仏閣・素封家などから先の<風土記>やそれに類する史書、資料が飛び出してくるであろう・・・・しかしである。現実はそう簡単にはいかない。

筆者のようなどこの馬の骨とも知れない者であれば何の実害もないが、そうは簡単に認めるわけにはいかない公家・皇族以外の方々も居られるようであるから、事は簡単にいかないであろう。再三書いた事であるが、宮内庁管轄の墳墓などの遺跡の調査が、完全にオープンでないのも大きな障害になっている事は間違いない。

 余談になるが、筆者が七年の間お傍でお付き合いさせていただいた「小野 妹子」の墳墓は近江以外の大阪府にも存在し、今も尚どちらが真実の墳墓なのかは分らない。この辺りも官僚の介入によって調査が遅れ、もたもたしている内に盗掘に遭ってしまい、大事な歴史的資料が散逸した可能性は強ち否定できない。確かに盗掘は全世界の共通事項で日本政府や官僚ばかりを余り強くは批判は出来ないのでは有るが・・・・・(^-*)    
 
 Heritage Heritage.jpg 

次回はB,Cについて書いてみたい。結論は今のところAが有力であるが、史実の本当のところは分らない。

本来ならば白洲正子著作集・「十一面観音巡礼」に直接関係はないのだが、歴史的な面で学者の間でも見解が大きく分れ、且つ古代史の大いなるロマンを横溢させるところでもあるのでかなり時間を掛けている心算である。この辺りを読者はご理解頂きたいものである。


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2012年6月30日土曜日

「白洲正子著作集・読書日記」



          「十一面観音巡礼こもりく泊瀬

                                             長谷寺-004



Wildeve 
 Wildeve.jpg
写真の薔薇は<花咲きかおまさ>さんの著作権が付いております。


 
奄美の梅雨の季節も大詰めを迎えました。 遠い東シナ海の果てには台風6号が発生し、今のところ然したる日本への影響はない模様。 本州一帯はこれから梅雨本番となるのでしょう。いずれにしても西南諸島は暑い夏の到来となります。




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 先回は著者がごく軽く触れている<樟の大木物語>について、筆者はその行間に深い意味を感じ取り、近江湖西地域と幾内・初瀬地域が密接な関係に有るという、著者のちょっとした文章に深く拘って、古代史に於ける朝鮮半島と倭(日本)の関係をさらに掘り下げてみようと思う。 樟と継体天皇、朝鮮半島情勢がキーワードとなるであろう。

朝鮮半島は日本海と呼称されている、あたかも大陸と日本列島の間に存在する湖のような部分の縁のような地域に存在する。下の地図はワザと逆さに張ってある。大陸の人間達から見ればこれが当たり前の見方ではないだろうか。つまり、日本列島は珊瑚礁のリーフの部分に当たる。日本海は沖縄の方言の呼称・インノーである。
 

                                      日本海周辺地図(大陸からの視点)

300px-Sea_of_Japan_Map.png 


 日本人は長年の初等中等教育の賜物の結果このような見方はせず、大陸とは独立した孤島のような感じでいるのではないか。大陸から見れば服の裾のヒレのような感じであろう。付属品でしかない。ということは地政学的に大陸と決して切り離せられない存在である。この辺の感覚の違いを理解してもらいたい。

このことは中国にしても、ロシアにしても、朝鮮にしても、日本の地は我が物と考えてもあながち無理からぬものがある。下世話に言えば<欲しくて、欲しくて仕様がない土地である。
いかがであろうか。 これが数千年に渡って日本が隣国の全てと、相い争ってきた現実を見れば納得するであろう。


朝鮮神話伝承の研究」 (依田千百子 瑠璃書房1988)・より参照

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そこで、上下二枚の地図を見ていただきたい。 対馬海峡は黒潮と呼ばれる暖流が遡って来る。朝鮮半島から人間が意思を持って日本に向かった時、黒潮は大きな影響を与える。古代の船は風以外に動力はない。帆がない船は海の流れに任せるだけとなる。

新羅から日本を目指すと、暖流に流されて島根県、鳥取県、福井県に至るであろう。現在の日本の経済を中心とした見方からすれば、この辺りは過疎化が進んでいる裏日本である。しかし、古代日本に於いては表日本であった。江戸時代でさえ北前船が若狭から蝦夷地に向かって航行していた。現在の東京などは古代日本に於いては辺境も同然である。
 
 
                     
                      Bossanova

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 琵琶湖の湖西沿岸に今も名称の残る和邇という豪族は、若狭から玄界灘までをその勢力範囲としていた。つまり島根から若狭までの一帯は新羅と密接な関係が有るのは地政学的に見て当然であろう。 琵琶湖の湖西岸にある比良、白鬚のSilla新羅 と先回書いた理由をご理解頂けるであろうか。

古代日本はこの朝鮮半島の諸国家と相争ったり、朝貢を受けたり、同盟を結んだりして来た。百済と新羅は戦争状態の時が多く、結局新羅・隋の連合軍に滅ぼされた。百済からは仏教や様々な文化がもたらされ、古代日本文化の発展に大きく寄与した。古代日本においては朝鮮半島の諸国が先生であり、われわれは生徒の立場でしかなかったのが現実の姿で有ったであろう。

 Sneprincess Sneprincesse.jpg 


 白鬚神社が全国に290箇所もの末社を持つのは、この神社の位置関係からして、古代の日本民族とは異質の民族が祀った社であるという見方のほうが、ごく自然な見方ではないだろうか。この神社の創建に関わった倭姫命邪馬台国の卑弥呼と比定されている)が新羅とどのような関係に有ったかは筆者には分らないが、この神社が並みの神社ではない事は確かである。まして、後年彼女が伊勢神宮の斎宮になって行くのであるから、ますますその感は強くなる。

高句麗、高麗、任那など朝鮮半島の古代国家と当時の日本は密接な関係に有ったが、これらについては今は対象外にしておこう。今の関心は新羅と百済である。ここで筆者は「継体天皇」について語らなければならない。継体天皇は謎の多い天皇である。一説には現在の天皇家の始祖でもあるとされている。

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 継体天皇の出自は近江高島越前三国朝鮮半島という三つくらいの説が有る。読者の中には「継体天皇の出自が朝鮮半島とはなんだ!」とお怒りになられる方も居られるかも知れないが、いま少しお付き合い願いたい。次回はこの天皇のややこしい出自と大和に至るまでの長い道程の話をしてみたい。

どうも「十一面観音巡礼」も危うく脱線しそうな雲行きである。


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2012年6月24日日曜日

「白洲正子著作集・読書日記」



     「十一面観音巡礼こもりく泊瀬」  
                                 長谷寺-003 

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 台風4号、5号と合い連なって日本列島を縦断しておりますが、奄美群島も連日風雨が強く大荒れです。 嵐の真っ只中の深夜、自宅のメスの三毛猫の<アマミン>が浴室の網戸を自力で破って脱走しました。何もこんな日にと思うのは人間だけと思うでしょう。これで3回目。

昼近くになってシラ~とした顔をして、戸口で鳴いてます。案の定、首輪は有りません。<どこへ落としてきたの?>と尋ねても知らん顔。<もう、3本も落としてきたんだよ>と怒っても知らん顔。あと、2ヶ月で満1才です。この前も散歩の途中で1m50cm位の長さの<マハブ>とかいう蛇に遭遇。


 
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先に飼い主が気が付いて丸腰なのでどうしようかと思案しているのに、彼女は草を夢中で食べています。蛇が藪に隠れる頃になってやっと気が付く。のんびりしてるのかどうなのか?困った猫です。本物のハブでしたら一巻の終わり。 どうする積もりかね? 先々思いやられます。

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 先回は「近江の国の山から流れ出てきた樟の大木」に拘った話を始めて途中で終りになった。筆者が樟に拘っているのか、著者が樟に拘っているのか分らなくなってきたが、いずれにしてもこの樟がどのような訳で、この文章の中に現れて来たか考えなくてはならない。
 
先般も書いたように、「」は継体天皇とその一族の大和政権に対する政治的な抗争のドラマを象徴的に表しているのではないかと考える。ただ、白洲正子(敬称略)がハッキリと継体天皇の事をドラマの中心に取り上げて、話の筋を展開する事に躊躇する心情があるのではないかと思う。それを強く筆者は文章の行間に感じる。
 
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 読者もご存知の通り、白洲正子は鹿児島県の生んだ海軍大将樺山伯爵家の令嬢でもある。先の昭和天皇とも昵懇の中であることもご承知の通り。天皇家とは深い人的な交わりがある。 戦後の昭和史の研究の中で、現天皇家の始祖と考えられるのは継体天皇という学説があるのである。荒唐無稽な物では決してない。

仮にこれを白洲正子が著書の中で強く書きすぎると、天皇家の系譜は<万世一系>というスローガンを否定する事になる。そのことに対する躊躇いが白洲正子の心の中に有ったのではないかと思うのである。しかし、歴史学的に考えて継体天皇が越前か近江の何れかで出生されたとしても、元々の血筋が国内であるという保証は何もない。

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 最近の研究から考えて血筋の源を探っていくと、日本の地を飛び出し日本海を渡り、朝鮮半島に至る可能性がかなり高いというが実態のようだ。国内の朝鮮民族に対する(南北朝鮮を含めて)国民の感情的なモツレを知っていればこそ、なかなか踏み込めない、触りたくない事であったかもしれない。

それが<>という得体の知れない巨木の民話のような話に書いていく理由ではなかろうか。筆者でもこの作品を書く当事者であればかなり躊躇する。いかがであろうか。 それで筆者はどこの馬の骨か分らない瘋癲老人であるから、何の遠慮もないので自由に思った事を書いてみようと思う。ただ、真偽の責任は取らない心算である。その点ご理解いただきたい。 

 
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A・・・「白鬚神社」について
 以前にも書いたように滋賀県高島市鵜川にある「白鬚神社」は近江高島と大津市との行政区画の間の近辺にある神社でもある。比良山の山塊が琵琶湖に落ち込むような地域にある。全国に290社とも言われる白鬚神社の総本社である。

社伝によると垂仁天皇25年、倭姫命により社殿を創建したとされている神社である。白鳳2年(674年)、天武天皇の勅旨により比良明神の号を賜った。祭神は「猿田彦命」である。

ここから「比良=白」であることが類推できる。ではその語源はどこから来たか?
結論から言うと・・・・・・新羅Silla)=比良=白・・・・・それは何を意味するのか。
朝鮮半島に歴史上存在していていた新羅国の末裔が築いた日本での祖地ではなかったのではないか。わざわざ<白鬚>としたのは単なる当て字でもあろうと思う。当時近江高島の鵜川は要害の地というような重要な場所でも有る。

大嵐のとき比良山から巨大な樟の大木が琵琶湖に滑り落ちてきたという比喩はこの当たりのことを言っているではなかろうか。唯、具体的にその記述が何を指すのかはこれから考えていこうと思う。
 
今回の最後にあたって、<倭姫命>について少し書いてみたい。
 

 
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 文中の中に・・・・<磯城の厳樫本で倭姫命がここに8年籠った後、伊勢へ向かわれた・・・・と言う箇所がある。垂仁天皇の第四皇女であった倭姫命が白鬚神社の創建にかかわり、伊勢の地に天照大神を祀った皇女であり、これが斎宮の直接の起源であるとされている。倭姫命の実態は何者だったのだろうか。また、「邪馬台国幾内説」によって、彼女を卑弥呼に此定する説がある。話しはますます面白く複雑になってきた。初瀬の地は近江の高島の地とかなり密接な関係に有る様である。

次回は話から少し外れて、古代史に於ける日本と朝鮮半島の実態について書いてみたい・・・・・・・・・・とうとう話は日本の地を飛び出しそうである。


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2012年6月21日木曜日

白洲正子著作集・読書日記

十一面観音巡礼こもりく泊瀬

長谷寺-002

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 掲載の木の花の写真は花咲きかおまささんの著作権が付いております。

 いよいよ奄美群島の梅雨も終盤に入ってきました。台風もかなり勢力の強い第4号が来週の火曜日目指して襲ってくるようです。雨台風にしても、風台風にしても西南諸島の台風は半端ではありませんので、今朝から風呂に水を貯めたり、庭の片付けなどをする羽目になりました。ランタン、懐中電灯、電池、ラジオetc
まだ青空の見える静かな天気。嵐の前の静けさでしょうか。


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 いよいよ先回からは大和・初瀬の長谷寺に入って来たが、古代史が複雑に錯綜した地でもあるので、白洲正子(敬称略)の文章も古代史の勉強不足の筆者には、簡単に通過できずにもじもじする始末。その内、近江高島の白鬚神社のことが頭を過り、ことはますます混沌として来た。

何度もなんども読み返し、関連資料を紐解いていくと、なかなか簡単な事ではない事が次第に分ってきた。先ずは仏像のことから書いてみよう。 

 
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A- 盛安寺十一面観音・・・・

文中で・・・最初に記した盛安寺の観音と長谷寺の本尊が何故密接な関係にあるのか、もはや説明するにも及ぶまい。素材は大津の湖上に何十年も漂っていた霊木である。崇福寺に同じ像を祀ることを考えたのは、きわめて自然な成り行きであろう。・・・・というくだりである。

崇福寺は今は廃寺となって跡しか存在しない。であるから、どのような仏像がその寺院に存在したかは、今となっては確かな事は分らないのが現状である。ただ、盛安寺の十一面観音が崇福寺の観音堂に祀られていたということのみである。・・・・そうであるならば・・・・白洲正子は盛安寺の観音は長谷寺の観音と同じ樟の同一原木から刻まれたと言っていることになる。

しかし、手持ちの参考書には木彫と有るだけで、原木の材質は明記されていない。あるHPの検索文章の中に<檜>とはっきり明記されているものを発見した。


 
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仮に<檜>が正解であるなら、上記Aの文章は成立しなくなる。筆者は困った!
捕り物臭くなったが、すこし考えてみよう。

問題のHPには観音像の彫り方についてこう書いてある。

・・・・丸顔で首は短く、上半身はどっしりしている。条帛の襞(ひだ)は細かく表され、裳の折り返しも縦の襞が賑やかである。その下に渦を巻く紋が刻まれ、また膝下の襞は力強いが、こうした衣紋は平安前期彫刻の要素といえる。ただし、平安前期の仏像によく見られるボリューム感はやや減ぜられているので、平安中期頃の作と思われる。・・・・・

盛安寺-01

 
 
 書いた方の経歴は不明では有るが、素人の方でない事は明白である。眼の付け所が常人ではない。専門家の眼でもある。確かに仏像の鑑定で大事な部分は条帛の襞や衣紋の彫り方である。これで年代が推定できる。  そのような方が材質の<>を<>と間違えことはないであろうと思う。そうであるならば、白洲正子は勘違いして、この観音の材質を長谷寺の錫杖を持った長谷寺式十一面観音の形から、この観音も<樟>と推定したのではないのであろうか。

また、崇福寺は天智天皇(661-671)の御世の鎮護寺であるから、継体天皇(507-531)の御世とは140年も間がある。最も重要な彫刻された年代が平安時代中頃というのであれば、花山天皇の御世(980)ころであろう。以上二つのことからこの寺の観音像は仏像形式の類似以外には関係が無いのではないかと思う。読者はいかがであろうか。



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B-樟の原木の逸話

 
文中で「原木の逸話」について面白い話が書かれている。筆者はこれに気を取られた。つまり、<何か文章の行間に見えないものを見た>のである。近江の大津の湖上で漂流していた樟の原木が百年以上もかかって、大和の初瀬まで紆余曲折を経て辿り着き、最後には仏像となるという逸話は、いったい何を語ろうとしているのだろうか。単なる薄っぺらな逸話ではないと考える。

大津は京都から逢坂を超えたところから現在は近江高島の手前までである。以前は堅田付近までが大津といわれていた。白洲正子がこの文章を書いた頃は堅田止まりであったろう。そうすると、琵琶湖の内湖という地域である。

先に結論を書くのは面映いが、<>=継体天皇・その一族という事ではなかろうか。先般ご紹介した「白鬚神社」がここで俄然意味を持って来たのである。筆者の当てずっぽうもたまには当たるようである。 白洲正子はここで本当は何を書きたかったのであろうか。

次回はこの謎解きを恥ずかしながら古代史に疎い筆者がしてみたいと思う。

 
 
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2012年6月11日月曜日

白洲正子著作集・読書日記


   「十一面観音巡礼こもりく泊瀬

         長谷寺-
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* 野の花の写真は<花咲きかおまさ>さんの著作権があります


西南諸島・奄美群島もいよいよ梅雨本番となり、滝のような豪雨が未明から降り始め、谷川の方から濁流のすざましい音が聞こえてきます。急峻な山の斜面を一挙に流れ落ちて薩川湾に注ぎこんでいきます。本州も東北地方まで入梅したとか。兎にも角にも大きな災害なしの梅雨で終わって欲しいと願うだけです。

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 いよいよ十一面観音巡礼の旅も近江の地を離れて、飛鳥の鬼門である東北の地、初瀬に辿り着いた。 この地は初瀬、泊瀬、長谷といろいろな呼び方が古来からされてきたようである。筆者も初瀬街道は車で一度通過したことがあるだけで、大方は近鉄の線路の上を何度も通過するだけであった。 長谷寺という寺名の寺は他に何ヶ寺か有るようであるが、鎌倉の長谷寺(高徳院)と初瀬の長谷寺しか知らない。

筆者が始めて長谷寺に向かった時は、ちょうど百合の花の咲く頃のことである。桜井方面から初瀬街道を宇陀方面に向かって車を走らせた。初めての土地の事とて、地理が良くわからない。地図など持たないで出向くのが筆者の何時もの癖で、頭の中の地図帳便りに進むものだから、長谷寺を通り越して初瀬ダムの方まで行ってしまった。

             桜の頃の長谷寺(舞台造り)
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 当時は車の駐車場が無かったような感じで、あちこち探し回った記憶がある。やっと、車を置き当てずっぽうに歩いて、何時の間にか長谷寺の本堂に入り込んでしまった。白洲 正子(敬称略)のように長い廊下を歩いて向かった記憶が無い。
帰る頃になって、やっと長い下りの廊下を発見して、下の方に降りて行った。

美しい花が廊下を中心にして咲いており、さすが花の寺だと感心したものである。花を愛でる為に廊下が有るのか、廊下が有るから花を植えたのかは知る由もなし。それにしても花好きの筆者には充分満足のいく寺の参拝であった。
 

                 御朱印帖
長谷寺
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 「御朱印帖」を見てみると、<昭和61年7月28日>となっている。日付からみると聖林寺を参拝してそのまま初瀬街道に戻って、長谷寺に向かったようである。もう昭和も終わりのドン詰まりの頃である。その時は大阪の葛井寺も訪れていた。この時はこの寺で如意輪観音菩薩を拝顔する予定であったが、それはかなわなかった。

良く調べもしないで、分ったつもりで行動する達であるから、時々このような目に会う。それでも理外の理というものか、不思議にそれほど立ち往生はした事はない。何かしら助け舟が出てくれる。しかし、葛井寺だけはそうはいかなかった。ここの観音様と縁が無かったのだろう。そのように今も思っている。

   
           御朱印帖・聖林寺と葛井寺         
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 長谷寺の十一面観音は何度も何度も災難に会われて居られるのには驚いている。白鳳時代の神亀六年(730)、四月八日の開眼。
身の丈、二丈六尺の巨像である。
          二丈六尺 = 7.87878788 メートル PCで計算する上記の通り。仏像の場合「丈六」という呼び名があるが、釈迦の身長が一丈六尺(4.85m)あったことから、この名の由来があるそうである。丈六より大きな仏像を大仏と言うそうである。鎌倉の高徳院の長谷の大仏は11.39mとか・・・・・・初瀬の現在の観音は10.18m・・・・見上げるような・・・・・でも、仏像には申し訳ないが何か有り難味がいまひとつ感じられなかった。ただ、余りにも大きいので驚きが先に立ったのかもしれない。天文七年(1538)では・・・江戸時代か・・などという不届きな考えが頭を過ぎったのかもしれない。 

               
十一面観音菩薩立像
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 それよりも、白洲正子の書かれたこの本の文中で、長谷の観音の由来が事細かに書かれていた事の中に、仏像の原木が近江の高島郡の深山から流れ出て、琵琶湖に浮かんでいた由来を発見して驚いた。継体天皇の御世だという。

継体天皇は近江高島の出生の方であるというのは、先般筆者が書いたとおりである。出生地は高島の現在の近江今津の近くであるが、現在の近江高島の少し手前に「白鬚神社」という神社が湖畔の際にある。ここは可也由緒のある土地柄と言う事を白洲正子が書いていたのを、以前どこかで読んだ事がある。案外、この事、この場所が樟の巨木が流れ落ちた由来の地ではなかろうかと思うのである。
 
             白鬚神社
湖中の鳥居
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 筆者も一度訪れた事がある。比良山の山塊が琵琶湖に落ち込むような難所でもある。ここの湖の中に鳥居を祭った神社がある。案外、筆者の当てずっぽうがドンぴしゃりかもしれない。今後すこし調べてみたい。そして、この仏像の製作者の仏師が渡来人であろうとされ、藤原鎌足の弟、その子の二名とも書いてある。

当時、藤原鎌足は仏教の擁護者、物部守屋は神道の擁護者であった。仏師の正体が誰か、信ずるに足らないと白洲正子は書いてはいるが、それは案外真実かもしれない。以前書いた事であるが、近江には「物部」という地名がある。藤原も物部も渡来人なのであろうか。案外そうかも知れない。日本の古代歴史のダイナミックな鼓動を感じる。
 
古代史の素人がこんな事を書くと、専門家に笑われるかもしれないが・・・・


        sekkouboku
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2012年6月4日月曜日

白洲正子著作集・読書日記


   「十一面観音巡礼こもりく泊瀬


                盛安寺-02



  Lilas

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* 野草・樹花には花咲かおまささんの著作権が付いています。

 南国奄美・沖縄は梅雨の真っ最中。ここ数日には強い台風3号が押し寄せて来るということで、準備怠りなく花の鉢やフェンスの補強、格子戸の確認etc・・をし終えました。日本の何処に居ても厄介な奴ですが、南国での出迎えは初めてなので、要らぬ神経を使っております。ちょっとした嵐でも結構キツイ風が吹くところですので、何かしら不安が心によぎります。

昨年の11月の奄美の集中豪雨被害は強烈なものでしたので、止むを得ないかと思っております。風以上に雨が怖いですね。半端な降り方ではありませんので。
さて、取り合えず準備も万端出来ましたので、盛安寺に入りたいと思います。


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                 盛安寺 十一面観音菩薩
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 盛安寺の傍に住みながら、一度も御尊顔を拝すこともなく、あろうことか兄弟寺の住職の好き嫌い、最後には小野皇草冠をつけて・・の悪口まで書いてしまって、筆者赤面の至りである。これで積年の溜飲は下がったが・・・

 お写真だけでの知識だけで、見てきたような嘘を書く訳にもいかず、面映いのではあるが・・・・この十一面観音は崇福寺という比叡山山中の当時は豪奢な佇まいのどこかの観音堂などに祀られていた仏像のようである。ご他聞にもれず、この観音も焼け出され、流転を重ねた挙句、麓の里の現在の寺に安置されたのであろう。 


 
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  近江にはとにかくこのようなお気の毒な過去を持つ仏像が多い。 しかし、信仰厚い里人のお陰で、大きく破損することもなく現在に至るのは、流石と言わざるを得ない。また、近江の寺等のどの仏像も実際に見て、余りの美術的観点から、その完成度の高さにも驚かされるのは度々である。壊れかけた観音堂に重要文化財クラスの仏像が里人お世話だけで管理されているのは、ごく当たり前である。

関東、東北、中部地方では考えられないような感じである。戦火でどれ位の素晴らしい文化財、仏像等が消失してしまったことだろう。今となっては想像も出来ない。 


 
盛安寺-01 


 盛安寺の十一面観音の像容は通常見慣れているお姿とは少し違っている。十一面神咒心経(玄奘訳)では、右手は垂下して数珠を持ち、左手には紅蓮を挿した花瓶を持つ・・・・一方、真言宗豊山派総本山・長谷寺の本尊の十一面観音像は、左手には通常通り蓮華を生けた花瓶を持っているが、右手には大錫杖を持ち、岩の上に立っているのが最大の特徴で、豊山派の多くの寺院に安置された十一面観音像はこの像容となっているため、通常の十一面観音像と区別して「長谷寺式十一面観音」と呼ばれる・・・・・

ただ、次回に訪れる長谷寺のご本尊とは明らかに違った部分がある。長谷寺や一般の十一面観音像は二臂像が圧倒的に多いが、盛安寺の像容は四臂である。これは純粋密教が空海が中国から伝来した時、十一面神咒心経(不空訳)によるものであった為に、四臂の仏像が造られた様である。その面からも貴重な仏像と言わねばなるまい。


長谷寺 十一面 

 
 長谷寺の重要文化財の十一面観音像をお借りして掲載してみた。銅像で鎌倉時代の作であると言う。像高・70.9cm 像容も素晴らしいが光背は見事なものである。このような素晴らしい仏像が今も綺麗なお姿で祀られているのは、誠に有り難い限りである。薬師寺の聖観音像とは又趣が違った、鎌倉時代の慶派の木彫の特徴を感じさせる見事な仏像である。

次回はいよいよ幾内の中央にある、初瀬に戻ることになる。桜井から近鉄大阪線に乗って長谷寺で降りる。 牡丹で有名な花の寺でもある。長い階段状の廊下の周りは一面花が咲き誇っていた。



                 牡丹 (琵琶湖の自宅)


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2012年5月27日日曜日



十一面観音巡礼こもりく泊瀬
盛安寺-01

 miyamamatatabi
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* 樹花の写真は<花咲かおまさ>さんの著作権があります。
 
毎日晴天が続いたかと思うと、突然蒸し暑くなり小雨が降ってくる。暫く降ったかと思うと急に肌寒くなり、北風が大島方面から吹いてくる。夏になったり梅雨になったり秋になったりと忙しい。梅雨が終わり台風が襲来し始めると、西南群島奄美の夏が遣って来るのでしょう。

十一面観音巡礼もやっと聖林寺から観音寺至り、次の長谷寺に至る途中で、近江の盛安寺を訪れる事になった。

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 幾内の中央あたりにある観音寺から長谷寺に至る途中に、急に近江に行ってしまったのに初めは疑問を持ったが、読み進めるうちにすぐ了解した。とはいうものの、恥ずかしい話、筆者はこの寺のごく近くに十数年住まいしていたにも拘らず、一度も参拝をしたことがない。

観音様のお姿は写真では知っていたが、近江を離れるまで実際のお姿は拝見していない。 JRの湖西線ではなく、平行して走る私鉄沿線の穴太(あのう)という所にある寺である。ご縁がなかったというしかない。穴太といえば穴太積みという石の名石工がたくさん居たところでも有名。素晴らしい石垣の姿は近在に知れ渡っていた。
                      
              盛安寺

 
盛安寺 

 
 盛安寺は天台真盛宗という天台宗の一派のお寺でもある。総本山西教寺が近くにある。この末寺の上品寺が小野の里の小野皇(たかむら)神社の菩提寺として琵琶湖の湖畔にある。私事で恐縮であるが、この寺の先代の住職に随分ご縁を得て尊敬していたのであるが、思わぬ事に癌で若くして逝去された。そして、次の住職は一目見ただけで嫌いになり、以来この寺からは疎遠になった。  



                                      
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 先代は修行僧然とした、如何にも僧侶たるにふさわしい方であった。寺は何時も塵も落ちていない程綺麗に掃除が行き届いていた。結構汚らしい寺を見ているので、実に何時も感心していたものである。<知らぬ事は知りません>と素直に受け答えする態度は爽やかであった。残念ながら次の住職は職業坊主であった。筆者の最も嫌いな軽蔑に値する貧相の持ち主でも合った。それで、この寺とはすぐに疎遠になった。

 小野皇といえば小野妹子の孫筋の名立たる有名人であったが、小野妹子が二回も隋に苦労して危険を冒して渡ったのに、彼はそれがいやで逃亡してしまったらしい。参議だかなんだか知らないが、立派な重要文化財の神社を後世建築してもらった。にも拘らず小野妹子神社は実に質素な小さなお宮である。筆者はそれが我慢ならんかったので、何時も観光に訪れる人達に愚痴ったものである。<可笑しいんじゃないの?>

そんなこんなで、彼の菩提寺である天台真盛宗の上品寺とは縁が続かなかった。案外そんな経緯から、筆者は彼から嫌われていたのかもしれない。・・・<知るもんか!>
 

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 筆者はけして自慢するのではないが、小野妹子神社の境内を7年間毎週一回掃除をしていた事がある。冬は雪が積もり、熊も出る。夏は薮蚊に刺され、とうとうアレルギーを悪化させてしまったくらいである。

しかし、この方は素晴らしい方であったと思わせる事が随分有った。今でも外務省の外交官が東京から遠路はるばる参拝に来られる程である。境内の外は住宅街で、神社は大きな古墳の真上にある。山一つが古墳という巨大なものである。境内に入るとピーンと気が引き締まる思いになった。気配が急に変わるのである。



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7年もお付き合いするとこの方のご性格がすぐ解るものである。金銭には距離を置いて清潔な方であり、必要な事はすぐにでも実行するという、典型的な外交官であったという感じが何時もしていた。聖徳太子に絶大なる信頼が有ったとされているが、筆者はそれは本当であったろう思う。いちいちここで遭遇した体験を書くわけには行かないのが残念だが。現在も人格神として崇め、奄美に来ても、お宮のお写真と一緒に持ち帰ったお宮の神具を大事に部屋に飾ってある。

話はとんでもない方角へ行ってしまった。 このことは白洲正子も<寝耳に水>で驚かれているであろうが、天上の方ゆえすぐ理解を得られるであろう。次回は本当に「盛安寺」に入りたい。
 


         natutubaki
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盛安寺 十一面観音

2012年5月23日水曜日



[十一面観音巡礼聖林寺-010]

息長山 普賢寺-003 



akaezomatu

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* 樹木・野草の写真は花咲かおまささんに著作権があります。

 今年の梅雨は晴れの日がやたら多く、陽の燦々と差す日が続いております。空梅雨でしょうか。今日も晴れ。ここ1週間ほど続くそうですが・・・・

2台のコンピューター(PC)の突然のダウンで、ブログ作業は大混乱!。なにせ、離島故、全て自分でやらねばなりません。都会のように応援なんて土台無理。

以前の事を思い出しつつ、手探りでやっていく。どうもメールからウイルスに感染したらしい。全てPCを洗い換えして全てのデータを入れ直し。幸い他に数台PCが有ったから良いもの、無かったら途轍もなく時間が掛かる。

 昨日、大潮の干潮日なので近くの太平洋岸の於斎という海岸で<ヤクシマダカラ>を探していたら、この日に限ってうねりが強く、携帯電話を海水に濡らしてしまった。携帯での撮影画面はお釈迦。 何かに祟られてる感じ!

それでも何とかPCを復旧させて、ブログを書くことになりました。随分予定が狂ってしまいました。

 さて、先回は白山信仰と十一面観音と水について書いてみましたが、今回は少し続きを書いてみたい。



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                         geraniumpurat
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 奈良時代の修験道の行者・泰澄が十一面観音を念じて、霊場として名高い白山を開山し、十一面観音を本地とする妙理権現を感得し、以来白山は現在に至るまで白山信仰の霊場として有名である。 

先回もご紹介した美濃の横蔵寺は白山の山懐にある天台宗の古刹である。冬の1月の寒い日に、西国33ケ所の結番・谷汲寺を出発して、まだ霜柱が立っているような山道をひたすら横蔵寺目がけて歩きとおした事があった。12kmほどの距離であったと記憶している。

                          白     山
白山


 寺に参拝する目的はなかった。以前からの習慣であるが、寺に参拝するという意識は希薄な方で、目的は仏像にお会いするという意識が遥かに強いのである。その時も寺の方はどうでも良く、「大日如来」にお会いしたさに4里の山道を歩いたのである。

しかし、寺に着いてみると、3月までの冬の期間は参拝不可であるという。雪深い山里の寺ならでのことではあった。文句を言うわけにも行かず憔悴して寺を後にした。この大日如来は大変な名品で、円成寺・大日如来に勝るとも劣らない仏像である。

作者は「筑紫講」とか記されているが、彫技は明らかに鎌倉時代の慶派ものである。恐らく都の名だたる仏師の手がけたものであろう。運慶一派の者であったに違いがない。それだけの名品である。不思議な事に一般の文献にはほとんど紹介されていない。・・・・・学者さんいったいどこを見てるんだ!・・・・と文句を言いたいぐらいでは有るのだが。

                                                         katakuri
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 私が参拝して大日如来にお会いしていたころは、村のお祖母ちゃんがお守りをしていた。朝に晩にお世話をしていたようである。八十を超えたであろう古老であった。その内何時の間にか会えなくなった。仏の身許に旅立たれたのであろう。そのような生活が何とも羨ましくもあったのを今でも記憶している。

この仏像には京都のとあるデパートでの観覧会で円成寺の大日如来と共に、あとは横蔵寺で数回である。何ともご縁のある仏像である。現在は自宅の仏壇の中央にお写真として安置されている。何方にでもご縁の深い仏像はあると思うが、筆者には都合3体の仏像がある。

横蔵寺大日如来室生寺の十一面観音、渡岸寺の十一面観音である。いずれも密教の仏像である。渡岸寺の十一面観音の傍にはとうとう住み着いてしまった。人と佛との関係はなんとも不思議である。

                                         koreopusismoon
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 十一面観音菩薩はバラモン教の十一面の暴神である、エーカダシャ・ルドラ(十一面荒神)が仏教に取り入れられたとされている。梵名はエーカダシャ・ムカ(十一の顔)。十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経によると、10種類の現世利益と4種類の来世での果報をもたらすそうである。しかし、直接に水に関係するものは見受けられない。わずかに「水不能溺」があるのみ。

筆者の事で恐縮ではあるが、九星学で言うところの「一白水星」であるが、七十年弱の人生をつらつら振り返ってみると、いつも海の傍、湖の傍に住んでいることは間違いない。現在も自宅から数十mに大島海峡がある。本能的に水を求めるようである。水の傍に住むと敗れないという確信が私の心に中にある。

何時も貧乏生活では有るが、とことん貧することはない。何時の間にか窮地から脱している。危ないなあ~と思っていると、何時の間にか助け舟が現れる。どうしてかは未だに解らない。 そのような事だから、知らぬ間に十一面観音に信仰を持ったのは自然な成り行きなのかもしれない。屁理屈かもしれぬが・・・・・
十一面観音は水に深いご縁のある佛と思っている。

                                                          kurematisroman
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 白洲正子(敬称略)がどのような事から十一面観音とご縁を得たかは、筆者には解らない。だが、白洲家の墓所の白洲正子の墓石に刻まれた、梵字を見た時なにかしらこの方と心のレベルでのご縁を感じた事は確かである。

能面」が縁を作ったのか、「十一面観音」がご縁を作ったか、そのいずれでもあろう。未だ一度もお会いした事もない方である。相模と武蔵の境の「武相荘」、今現在住んでいる「鹿児島県」・・・・いずれも白洲正子に縁のある傍に住み住んでいたし、住んでいる(奄美は少々外れているが県内ではある)。少しも意識してそうしたわけではない。気が付いたらそうなっていた。筆者の人生は何時もこうである。

                                                            kurematisujack 
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HPを捲っていたら、平成21年2月18に書かれた、川尻 祐一郎という方の投稿を偶然見ることができた。この方は治水事業の技術者のようである。東海地方の矢作川農業水利事業のことから始まって、北近江の土地改良事業などを手がけられたらしい。その中で白洲正子の「十一面観音巡礼」等を読まれ、その中の文章を引き合いに出され、「水と十一面観音」との密接な関係を書かれておられた。

偶然に捕まえたHPではあったが、北近江が出てきたのには少々おどろいた。「お水取り」「お水送り」「水分(みくまり)」etc・・・・水と十一面観音との縁(えにし)が事細かに書かれてある。読み進むうちに筆者の能書きなどまったく不必要になった。(気になる読者は検索してもらいたい)

次回は「穴太の成安寺」、「泊瀬」(長谷寺)に移って行きたい。大分足踏みしてしまった。
本日よりFC2版と同時にブログ公開しましす。


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