2012年5月16日水曜日

茜ちゃんの「白洲正子著作集・読書日記」-006

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[十一面観音巡礼聖林寺-006
                                                                  
                   
  神宮寺ー02
   
                                                  

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 さて先回は近江(滋賀県)堅田(大津市)にある旧官幣神社・下神田・神宮寺の不動明王について書いてみた。ご存知の通り、近江は古代から連綿とした歴史深い地でもあることから、様々な文化遺産が地上にも地下にも建設、埋設されている地でもある。

現在の大津市の中心部は大津京とも言われてきた土地柄だが、この辺りから琵琶湖の西岸は湖西と呼称されている。この辺りは小高い丘陵地帯と背後に1000m近い山岳地帯になっており、丘陵地帯には夥しい古墳が存在し、古墳の間に民家が有るのかと錯覚するぐらいの観を為している。
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 戦国時代以前は相当の数の神社仏閣が存在していたであろう事が伺える。織田、豊臣、徳川のすざましい騒乱の中で、どれ位の神社・仏閣・文化財が焼却、破壊、盗掘、盗難にあったことであろうか。正確なところは今もってわからない。

神宮寺の中の仏像やその他の文化財もかなりの物が、現在の土地以外のところから移動されて来たようである。 その中には相当な規模の大寺に安置されていた仏像・その他の文化財も含まれて居り、それ故、小さな祠や観音堂に全く不釣合いな仏像を発見するなどということがある。

十一面観音国宝第一号の北近江・高月の向原寺内の渡岸寺の十一面観音菩薩像などは、その代表的な存在である。現在は寺の横の収蔵庫の様な観音堂の中に数体の密教系の仏像と一緒に安置されている。 この観音像を一目見るだけで、戦国時代以前は相当な規模の大寺院に安置されてきた仏像と、すぐ理解が行くほどの名品である。

戦乱の最中、信仰厚い集落の人達によって、仏閣から運び出され土中に埋められ、或いは彼方此方を流転し、世の中が安定し始めてた江戸時代になってから、急ごしらえの観音堂や祠のような建物に安置され、守られてきたものと考えられる。北近江にはこのような仏像に限っても、素晴らしい名品が数多ある。
  

 
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ここで、筆者が体験した一例を紹介してみよう。

 現在の大津市小野と云うところに、多くの古墳に挟まれる様に、小野道風神社という社が有る。ご存知の小野一族の俊才、小野道風を祭った重要文化財である。その傍に小さな観音堂・「花達院」がある。ここには三十三観音、不動明王、毘沙門天が2件の建物に分散して祀られている。

ところが筆者が調べてみると、その配置に大変な間違いをしていることがわかった。
本来ならば    
                   
正確な仏像の配置の仕方
 <毘沙門天>      <観音堂>     <不動明王> 

するところが
現在の仏像の配置の仕方
          <観音堂> <毘沙門天不動明王

となっている。この正しい配置の仕方は、比叡山延暦寺 横川に現存するお寺の、天台宗独特の配置の仕方である。 戦国時代のこのお寺も天台宗の末寺であった可能性は、非常に高いこの配置の間違いは山門堂舎記による記述から筆者が発見したもので、どのような経緯からこうなったかは、今となっては解らないが、恐らく錯誤によるもの、或いは金銭的な経済的理由によって、現在のような形になったものと推察される。

今となっては大変な費用が掛かるので、集落の方々の力だけで元の形に戻すのは大変難しいものとなっている。


*[山門堂舎記
によれば、嘉祥元年(848)に建立された比叡山横川の首楞巌院の根本観音堂には聖観音、不動明王、毘沙門天が随時する三尊が安置されていた。この組み合わせは円珍の考案になり、天台系寺院に多い。
花達院

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  左写真は隣の「毘沙門天・不動堂

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2件の堂内には、江戸時代 中期の作の仏像が多く、新しい感じの感触を受けた。 ただし、中央の「聖観音菩薩」は秘仏なので、33年に一回しか拝観出来ないので、この仏像はまったくどのようなお姿かは正確には解らない。 また、有ろうことか、最近になって十体程の観音像が盗難にあうという災難に遭遇した。 

 余談になるが、筆者は観音信仰者なので、毎週1回この観音堂を参拝していたが、どういう訳か筆者が盗難に関与したかのような誤解を周りの住民から受けたこともあった。一部の愚かな者の讒言によるものと思うが、えらい迷惑を受けたものである。
以後も、各地で度々文化財が盗難に遭い、幾重知れずになっている。闇の窃盗グループが暗躍しているのであろう。仏像などがこのような者達によって海外に売られていく事は、明治時代以降数々有ったが、今もって続いていることは慙愧に耐えない。
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  近江だけでなく、関西一円でも明治時代の愚かな廃仏毀釈によって、似たような悲劇が数多く有ったものと推察される。 現在は立派な収蔵庫に安置されている仏像でも、以前は神社などの軒下に店晒しになって、雨風に打たれ無残な状態になっていたようである

聖林寺の「十一面観音菩薩」においても然り。日本人は世界に稀なる文化を育みながらも、心無い一部の民衆によって、数多くの文化財を自らの手で打ち壊し、廃棄してきた民族である。 今でも新築の家屋を建てるにあたって、容赦なく古い家屋を破壊し、廃棄するという事が行われている。それが<格好が良い>という観念が日本人の頭のなかに存在するのも事実である。それは石の文化と木の文化の民俗学的な違いから来るのであろか。

 文化財保護法と言う法律によって、様々な文化財が旧に復するようになったが、海外に持ち出された物は、ほとんど手の施しようが無いのも事実で、明治時代の一部の無知な為政者の失態は考えて余りあるものが有る。

ただ、この悲劇が100%仏教関係者、特に神社仏閣に起居して居た者達に、責任が無いとは決して言えないと思う。一部の常軌を逸した行為をなした者達の腐敗が招いた悲劇だとも思う。日本に限らず古代中国においても然り。 宗教の修行者が職業従事者になった時に、このような悲劇を引き起こすのであろう。正に、神罰、仏罰の類である。

少し話があらぬところに行ったが、次回は「十一面観音巡礼」に戻りたいと思う。
 ねこへび

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2012年5月13日日曜日

「十一面観音巡礼ー聖林寺ー神宮寺ー01

  


[十一面観音巡礼ー聖林寺-005]


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神宮寺-01  

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 白洲正子(以下敬称略)は聖林寺から三輪神社に向かった。 奈良の山辺の路の途上にある、山そのものがご神体であり、拝殿のみしかないと言う神社である。三輪神社にはかって神宮寺が三社あり、聖林寺の十一面観音菩薩はその中の大御輪寺(おおみわでら)に祀られていたとされている。 筆者は車で奈良の中心部から長谷に抜けるとき、幾度も側を通る事があったが、時間の関係で立ち寄ったことはなかった。 

大御輪寺(おおみわでら)
 
大御輪寺

先々代の住職が大御輪寺の住職を兼任していたという。両者の間に歴史的に特別な関係が有って、その縁で後日観音は聖林寺へ移送されたのであろう。話はその後<即身成仏>に移るが、この話は次回以降に行うとして、本日は「神宮寺」について書いて見たい。

 神宮寺は三輪神社だけでなく日本各地にあるようである。 神仏混交という日本独特の信仰観から来たものであろうが、この宗教慣習は遠くインド伝来のものであろう。特にアジア人の宗教慣習の中にはこれと類似したものが多いのはご承知の通りである。

私が以前住いしていた滋賀県大津市の堅田という琵琶湖の港の近くの「神田神社」という歴史深い神社があった。 ここにはどのような訳か、近所に同じ名称の神田神社が存在し、ひとつは上神田、もうひとつは下神田と、在所の方々は呼んでいた。鬱蒼とした木立、山などを社内に持つ歴史深い神社である。



神田神社 神宮寺 滋賀 神田神社 神宮寺

 
  ここには柱にも見えるように、不動明王が祀られている。なかなか扉が開かない神宮寺で、筆者も毎週必ず神社を礼拝する時、最後にこの神宮寺を訪れて、不動明王に礼拝する習慣になっておりました。 或る時、お会いしたいと言う願いが通じたのか、戸の隙間が空気の換気の為か少し開いていた。

是は有りがたいと思い、僅かばかり開いていた戸の隙間から中を覗いてみた。
薄暗がりの中の奥に、等身大の不動明王がお立ちになっておられた。
お姿は鮮明には見えない。 このサイズの不動明王はなかなか有るものではない。この堂のレベルでは精々数十センチメートル位の仏像が殆どである。


 
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後日、また、チャンスに出合うことが出来た。 夏の虫干しでこの堂内にある「大般若経」を戸を大きく開いて、数人の氏子と思しき人達が行っていた。
すぐさま、彼らの了解を得て堂内に入り、礼拝しながら中央に堂々とお立ちになられて居られる、不動明王を見つめた。



                                                   三井寺 黄不動尊                                        
不動明王


 上記三井寺の黄不動尊とほぼ同じ、平安時代位まで遡るであろうと思われる、素晴らしい不動明王であった。 何故、平安時代頃まで遡れると思ったかは、白洲正子著作集のある文章の写真を良く覚えていたからに他ならない。
 
仏像は鎌倉時代などは殆どだと思うが、木佛の場合は木地の上に漆を塗る。そしてその上に彩色をしていくものである。 不動明王は密教の仏像であるから、彩色は絢爛豪華である。漆は木地を守る事に役立つ。


 
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 能面の場合も筆者はたまたま面打ちを手がけるから知っているのであるが、面の裏は漆を塗るのが正規な造作の仕方である。そして、面の木地には最初胡粉を塗り、その上から彩色を行う。その際、昔は仏像でも、能面でも「白土」という乾くと白さが際立つと言う、奈良の特定の場所で産出する土を用いる。これを白洲正子の著書に書かれていたのを思い出したのである。

その、神田神社の神宮寺内の不動明王のお姿の彩色が落ちていた部分に、白土を発見したのである。その時、筆者はこの不動明王が唯の一般のお寺の仏像でないことを悟った。 しかし、この仏像の来歴は誰もわからないという。古老の話では戦国時代の騒乱の中で、焼け出された寺から持ち出された仏像で、今となってはわからないと言うだけであった。

本日はこの辺りで筆を置き、次回もこの続きを書いてみたい。 


 
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